崩れそうな朝、僕を支えたのは“整えた服”だった

整えの哲学

睡眠は整わなくても、服なら整えられる

僕は不眠症で、毎晩薬を飲んでいる。
朝起きるのがつらいのは、もう慣れたことだ。

アラームは鳴っても、頭がぼんやりしていて、
「今日はもう休んでもいいかも」って気持ちが先に立つ。

それでも起き上がって、鏡の前に立つ。
髪はボサボサ、顔はむくんでて、
着替えようとしても、Tシャツ1枚さえ重く感じることがある。

そんな朝でも、僕はいつものようにセットアップに袖を通す。
毎日それを着ているから、手は勝手に動いてくれる。
でもこの日は、いつもと違って“少しだけ気持ちが整っていく”のを感じた。

「今日、なんとかなるかもしれない。」

毎朝そう感じられるわけじゃないけれど、
この日は、服がちょっとだけ自分を引き上げてくれた気がした。


整えることは、気合いじゃなく“祈り”に近い

無理やり前向きになる必要はない。
気分が乗らない朝だって、毎日のようにある。

でも、服だけは整えてみる。
それだけで、ほんの少しだけ呼吸が深くなる。

整えた服は、前向きにするものじゃなくて、
“崩れかけた自分”をそっと支えるものなんだと思う。


気持ちは選べなくても、服は選べる

今日はしんどいな、って日でも。
どんな気持ちで目覚めても。

服だけは、自分で選べる。
その選択が、ちょっとだけ自分を立ち戻らせてくれる。

「整える」という習慣は、
自分を律することじゃなくて、自分を守る手段なんだと思う。


今日もうまくいかなくても、整えて外に出る

結局その日も、気分がすっきりしたわけじゃないし、
何かを達成できたわけでもなかった。

でも夜、シャツを脱ぐときにふと思った。

「なんだかんだ、今日も一日ちゃんと生きられたな」って。


眠れない夜があっても、
朝うまく起きられなくても、
それでも“整える”ことができる自分を、ちょっとだけ誇らしく思う。

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