抜け感は“整えの中にある余白”──藤井風に学ぶ、力の抜けた美学

整えの哲学

抜け感は、“整えの中にある余白”

「抜け感」──最近よく聞くこの言葉は、整えた中にある“ゆるさ”や“余白”のこと。
きちんとしているのに、どこか息が抜けている。そんなスタイルに、僕は惹かれる。

ある日、YouTubeで藤井風のライブ映像を見ていた。
ピアノの前に座る彼は、シャツの袖をまくり、髪を無造作に結び、まるで“整えていない”ように見える。
だけど、そこには確かに“整っている空気”があった。

力が抜けているのに、芯がある。
ゆるいのに、色気がある。
その佇まいに、僕は完全に引き込まれていた。

「抜け感って、こういうことかもしれない。」

それからというもの、僕のセットアップにも“抜け”を足したくなった。


「ちゃんと着る」ことに、疲れていたのかもしれない

たぶん僕は、整えすぎていた。
セットアップを着るたび、きちんと見せようとして、どこか緊張していた。

でも藤井風を見て、
「きちんと感って、気合いじゃなくて“空気”なんだ」と気づいた。

それ以来、
ジャケットのボタンを一つ外すこと、
袖を軽くまくること、
Tシャツを少しだけ見せること。

そんな“小さな抜き”を許せるようになった。


抜け感は、着こなしより「距離感」だった

セットアップとの距離。
“かしこまりすぎない距離”にいると、服も自分も自由になれる。

藤井風がまとっているのは、たぶん「着ていないように着る」感覚。
自分のスタイルを信じているから、余計な気合いがいらない。
それが結果的に、ものすごく“品”としてあらわれている。


整えの中に、ちょっとだけ“抜く”

たとえば素材を変える。
リネンやジャージーにするだけで、呼吸が通るようになる。

足元を革靴からスニーカーに変える。
ピタッとしたサイズから、少し肩を落としたシルエットにする。

それだけで、自分にしか出せない「ゆるさと整いのバランス」が生まれる。


まとめ:抜け感は“完成させない美学”

完璧じゃない。
でも、それがいい。

“やりすぎない”ことで、余白が生まれる。
その余白にこそ、色気や品が宿るのだと思う。

抜け感は「整えの最後に残す、呼吸のスペース」。
それは、自分を信じている人だけが持てる余裕なのかもしれない。

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